福山雅治さんと石田ゆり子さんの『マチネの終わり』にが来年秋に公開となりますが、すでに話題になっていますね。今回福山雅治さんの相手役にはかなりの女優さんの名前が挙がったそうですが、福山雅治さんの強い希望から石田ゆり子さんとなったそうです。さて石田ゆり子さんといえば『不機嫌な果実』で濃厚なベッドシーンで話題になりましたが今回も福山さんとの濡れ場シーンはあるのでしょうか。また『マチネの終わりに』の小説からどんな濡れ場シーンが予測できるか?まとめてみました。

『マチネの終わりに』石田ゆり子濡れ場シーン

マチネの終わりにの原作の中では気になるいくつかの濡れ場シーンを彷彿させるシーンがあります。

約束の日

会う予定だった日に急にあえなくなった洋子から1通のメッセージが届きます。

そして夜、コンサートを終えた蒔野は洋子の部屋に行きますが、そこではバクダッドの過激派から脅迫を受けて逃げてきたジャリーラを匿っていたのです。

しかし疲れ果てたジャリーラをなだめベッドで寝かした洋子は婚約者のリチャードへ解消を伝えたという。

そこで見つめあう洋子と蒔野。

そのシーンはこんな風に描かれています。

洋子は彼が求めるならばさらに残酷な犠牲でさえ厭わぬような無防備な気色でまっすぐに立っていた

つまり彼が希望するなら洋子はどんな仕打ちでも(リチャードから)受けるという覚悟を感じ取ったということ。

そして無防備な気色とは“彼が求めるならば一糸まとわぬ姿でも”という意味でしょうか?

さらにこんな風に原作では描いてあります。

蒔野の腕の中で洋子は精神的にも肉体的にも今は彼の一切の望むものを受け入れたいと思った。彼の中に満たされないというものが何も残らないように。洋子が初めて知るそれは奴隷のような欲望だった。

つまり洋子は蒔野が求めるならば、何でもするし、仮にセックスを求めるならば何度でもという意味でしょうね。

“奴隷のような欲望”とは、蒔野の性の欲望の対象になってもいい。なりたいという意味でしょうか?

すごい表現ですが、これだけでもかなり濃厚なラブシーンが想像されますね。

またこうも描かれています。

蒔野に愛される為ならば自分はツアー先でただ時折会うだけの女であっても構わないとさえ一度は真剣に思った。一つの愛の放棄にはこの愛は見合うものでなければならなかった。彼が不満であってはならなかった。あるいは完全に彼の思うがままの存在であり得るならリチャードへの罪の意識も解放されるのだろうか?洋子はこの時淫らであるということの何かしら新しい定義に触れているような感じだった。

この文章を読んで一体どういう意味なんだろうと思いましたが、洋子は恐らく自分の意志とは関係なく、蒔野に求められるならばすべて体をゆだねるという意味でしょうか。

また愛の放棄(リチャードとの解消)にはそれに見合うもの、つまりは解消させる以上の何か強い欲望を蒔野と分かち合いたいということでしょうか?

お互いに惹かれあっている蒔野と洋子、しかし洋子には婚約者がいます。

普通ならここで洋子をあきらめるでしょうが、蒔野は“洋子さんがイラクで死ぬのであれば、もしくは死を考えるなら、僕も死にます”とさえ言ってしまいます。

つまり“あなたがこの世の中にいないなら生きている意味がない”とさえ言われてしまった洋子。

そこまで自分を想ってくれる蒔野にどうしようもなく惹かれてしまう洋子は、もうすべてを蒔野に捧げると覚悟したのではないでしょうか?

『マチネの終わりに』【ヴェニスに死す】症候群の意味するものは?

洋子の言葉の中に【ヴェニスに死す】症候群という言葉が何度も出てきます。

洋子は今【ヴェニスに死す】症候群の官能の渦中に呑まれつつあるのかもしれなかった

【ヴェニスに死す】症候群とは洋子の父ソリッチの造語でこういう意味。

『中年になって、突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること』

洋子はこの時40歳。

多くを望むべき年齢ではありません。

そして人生80年としたらもう折り返し地点に着いています。

ひたすらジャーナリストとして命の危険を感じながらも使命を全うしたか彼女の前にふと現れた一人の男性に出会い、緊迫した日常からふと癒され本来の自分に戻ったのでしょう。

ちなみにこの【ヴェニスに死す】という映画ですが、こんな内容でした。

作曲家アッシェンバッハは保養のために訪れたヴェネチアで完ぺきな美青年タージオに出会います。

作曲家アッシェンバッハは50代半ばの作曲家。

しかし長い人生の中で彼は妻に先立たれ、愛娘の死を経験し、辛い経験をします。

そして寂しい心を満たすかのように若い娼婦と関係を持とうとしますが、EDで抱けなくなってしまうのです。

自分の肉体の老化を感じたアッシェンバッハはその美青年に次第に惹かれていくのです。

しかし同性愛者というわけではなく、彼の美しさに惚れてしまうのです。

そしてさらに悲劇は起こります。

ヴェネツィアではコレラが発生。

しかし美青年タージオに心抱かれたアッシェンバッハは彼から離れたくないために去ることができません。

結果アッシェンバッハはコレラに感染して死を迎えてしまうのです。

なんとも悲しい結末ですが、彼は死を覚悟してまでも美青年タージオの美しさに抱かれたのです。

破滅的な内容ですが、こういった意味合いから考えると、洋子の中できっとそんな覚悟が蒔野との間にあったのではないでしょうか?

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『マチネの終わりに』石田ゆり子の濡れ場シーンは過激?まとめ

バクダッドで死と隣り合わせの恐怖と闘いながらジャーナリストをしている洋子はバクダッドでの内戦中でも蒔野の音楽を聴いていました。

彼の音楽こそ、また彼こそが生きる喜びを感じさせたのではないでしょうか?

実際に洋子はPTSDという心の障害を抱えてしまうほど、精神のバランスは崩れていました。

そう思うと洋子は蒔野と会っているときこそ生きている実感を感じ、素のままにいられたのかもしれません。

父親に【ヴェニスに死す】症候群だと言われた洋子ですが、人生のターニングポイントに立ち、どうしようもなく蒔野に抱かれ、破滅してもいいとさえ思っていたのかもしれません。

濡れ場シーンですが、3度しか会ったことがないがどうしようもなく惹かれていたというキャッチフレーズからして濃厚シーンが想像されますね。

映画公開が楽しみです。